「Flow」制作メモ

制作メモ2023/10/4
・ものすごく久しぶりにプロジェクター導入。解像度実験でFullHDでも足りないことが判明したが、幸運にも4Kプロジェクターをメルカリで破格GET。運がプロジェクトを後押ししてくれそうな、いい兆し。10000ピクセルで9層分のデータを巴山さんに出力してもらえたので、なんとかほぼ全ての球をトレースできる。最も小さい球の列は、それでもボケる。対応策はボケた投影画像とケータイ画面の中で同画像を拡大させて見比べながら描くしかない。爪楊枝で1~2ミリの球(というか点)を置く。

・プロジェクターもキャンバスもできるだけ固定しているが、床が若干沈んだり、キャンバスに置く手の重みなどで、どうしても描いているうちに2mmレベルのズレが起こる。後々どのくらい影響が出るか心配なところだが、どのように辻褄を合わせて行こうか。

・大体いつも制作ボリュームを甘めに見積もってしまうのだが、今回も描き始めてようやく、球の量を多くし過ぎたかもなと反省する。次の2層目が最も量が多いので、果たしてどのくらいかかるか。

・綺麗で正確に物質化するならば、ガラスなどもっと透明でフラットな支持体に、UVプリントなどのテクノロジーを使う選択肢もある中で、改めて、デジタル上で完璧に決まっている画像を、わざわざ手描きで起こしていくことについて考える。(トレース中は、手だけが忙しくて頭は結構ヒマ)

・立てたキャンバス上で小さな円を右利きで描こうとすると、左半分はスムーズに描けるが、右半分は自分の手に隠れたり関節の動きが変わって描きづらいため、体を左側に移動させて手の角度も90度傾ける感じで描いていく。一つ一つの円をこんな動きで描くことで、足腰も痛くなってくるし、早くても一つ1分弱の時間がかかる。結局一層目で2日以上必要だった。これがいわゆる「身体性」というやつに関わることで、一枚の画像を体で長時間咀嚼すること、それがそのまま筆跡にも記録されることが、手描き絵画の面白いところの一つではある。

ただ、身体性がそのまま絵画の魅力に繋がるかといえば、そんなこともない。イメージが必要としている痕跡があるとして、余計な身体性がのしかかり重く遅く仕上がってしまうのであれば、そこに絵画の古さやカッコ悪さが現れる可能性もある。そのバランスの見極めが画家に課せられるひとつの大事な要素とはいえそう。

・ホックニーのiPad絵画にも充分な絵画の身体性が感じられたと、都現美の展示を見てきた友人の画家が興奮して話してくれた。曰く、デジタルツールにもデジタルツールなりの線や効果の特性があり、それは実際の絵具の効果特性と等価に見えるとのことで、ツールに対応した技術は都度現れるし、画家の視点がそこに宿るのであれば、どのツールを選ぶかもそれぞれで、必ず絵具でなければいけないわけではない、と。僕も同感。その友人が僕の一層目を描写してる途中を見にきて、めっちゃ空間感じますねと言っていた。そりゃあ3DCGで作った空間を忠実にトレースしてるんだもん、と答えた。

・僕の透明層は、塗るほど少しづつくすむような性質を持っている。使うメディウム自体の透明度も若干濁っているし、塗る際に気泡が入るのも一要素。これから層を重ねることによって、背景の焦茶色がどんどんくすんでいくはずだ。今回の3DCG空間には空気のイメージはなく、遠くの球もクリアに見える。ここに透明層のくすみが追加されていくことで、どのような影響が加算されるだろうか。今までのイメージと全然違うので、ある程度重ねてみて初めて効果が見えてくるだろう。いい効果が出ればいいのだけど。
 

 

制作メモ2023/10/16
・絵の中には絵を描いている時の色んな行為や感情や時間などが記録されていると思うが、絵の外で起こっていることまでは記録されているだろうか。2層目が始まってすぐ、子供→自分と配偶者が同時に、風邪でダウンして制作が止まった。その後遅れを取り戻すために、子を実家に預け配偶者(うちのスタジオは、僕の他に、アシスタント君が透明層の研磨と表面調整、配偶者が円の描写補佐、と3人体制で動いている。)と同時に無数の円を描き続けてなんとかスケジュール補正をした。
子育てが始まって以来、制作の天敵はとにかく、風邪の回数と同時ダウン人数が増えたことだ。昨年末のファンダフェスminiも風邪かコロナかわからん症状のせいで参加を見送らざるを得なかった。今回のフェス会議もやむなく欠席。がっくりくる。
そしてやっぱりこのようなことまでは絵画には記録されないよなぁ、と思うと、いろんな作品制作の裏に同じように風邪やらなんやらにやられながら描いただろう作家たちがいて、、と思いを馳せた。なので画家の日記とかこういう制作メモとか、制作周辺のことって残ってた方が面白いとも思うし、残ってたら逆にマズイ情報なんかもあるかもしれない。

・プロジェクターの画像をトレースしていて思い出すのは、前回のメモでも触れたが今都現美で個展が開かれてもいるデヴィッド・ホックニーによる、20年前くらいの著作「秘密の知識」という本。絵と光学機器の関係に興味があって未読の人にはぜひオススメしたい内容で、画家たちがどのように光学機器を表現に取り入れてきたかという歴史を、実際の作品にあらわれている描写の特徴や、当時の光学機器を実際にホックニー自身が使ってみて分析するという名著。今読みながらこれを書いてるわけじゃないなので正確さは曖昧だが、最初に光学機器が西洋絵画史に取り入れられたのはルネサンス後期で、その頃に人類の描写力が突然飛躍的に上がる、ということをホックニーは見抜いて、カメラオブスクラによる光の投影をトレースした技術が確立されたのがその時代だということや、写真以降にこそ出てきたセザンヌやピカソに新たな視点を見出しているなど、評論家や美術史家視点とは全く異なる説得力で、見るということの面白さに気づかせてくれる。
その本の中に、アングルのドローイングとウォーホルのドローイングの類似性を指摘している箇所がある。アングルはカメラルシーダ、ウォーホルはプロジェクターでと、道具こそ違えど2人とも像をトレースしているということが、ドローイングを見ればわかるという。服のひだや静物を追ったドローイングの線が、実際の形態の流れに関係せずに始まったり終わったりして、線の方向もバラバラ。もし肉眼で形を追いながら線をかいた場合だと、形の連続性を追いながら線を紡いでいくので、こんな線の形跡にはなり得ないと。同じように、ものを見ながら描いたことのある人、画家なら大体、言っていることがわかる。当時、絵描きの特殊能力としての線の見方が、こんな分析までできるのかと読んでて感激した。
、、、と、2層目の丸の連続を描いていて、そういう感覚がリンクしてきた。今かいてるやつが普段の作品と違うのは、イメージが明確な3次元空間の性質を持っていて、丸の連なりを描くことでその空間に触れているような気分になるところ。丸の連なりを描いている時に、感覚的には手前から奥へ、あるいは奥から手前へ、順を追って描きたいものだが、トレースの場合必ずしもそういう描き方にはならず、右利きなので、基本は自分の手に触れないように画面の左から右へ、上から下へ描いていくことになる。なので時に別々の丸の連なりに属する丸たちを無関係な順序で描いたと思えば、部分的に空間に準じたリズムを持って点々点々、、、と描くこともあり、3D空間を全く別の理屈でジャンプしまくっているような気分になる。作業自体は単調で修行のようなのだけど、そんなわけで描いている時は意外に面白かったりする。

・2層目で既に、1層分+アルファの奥行きを感じられるのが、面白い。それはやっぱり、一層ごとに既に丸の連なりによる空間の情報が詰まっているからだろう。丸の連続を描くことで、結果的にはグニャグニャした曲線を描いていることになる。それぞれの曲線が、一つの群れのように存在していて、秩序を保っている。この曲線の複雑さや正確さは、線遠近法では当然出てこないし、製図的に生み出すことはほぼ不可能だろう。今回のイメージの面白どころとしても、直線が一つもなくて全て曲線要素というところかもしれない。そんなイメージを、いつもと同じようにたった一つの要素である丸を描き続けることで、出来上がっていくのが不思議だ。

・ここまで小さな丸をたくさん描くのは今回が初めてなので、使う筆の種類も手の動かし方も違うのだが、手の動きがだいぶアップデートされてきて、1層目の丸よりも早く丁寧に描けるようになってきた。頭と体が細かく細かく手と筆の動かし方を微調整し続けている感じ、スポーツみたいというのは大袈裟かもしれないけれど、あるルールが前提にあり、それに適した体を作るという点で似ていなくもないのではないか。例えば野球におけるボールの大きさや硬さや、バットの性質や、グローブの種類などが、絵を描く道具に置き換えられる。絵画における前提は、ペースト状の物質=絵具を、何かしらの道具で何かに塗る、というのが自己認識。特に「ペースト状の物質」、この流動性の極めて高い、色のコントロールができる、ドロドロネチョネチョしたものの、記録媒体性質とそれに向き合い特化させた身体の行為が、絵画を面白くさせる大きな要因なのだ。

今回の作品において絵具の性質が3DCGのイメージにうまく合致させるための一つの指針として、できるだけ丸の歪みは少なめに、極小な丸も限界まで追ってみること、後々隠れて見えなくなる丸も全て描き切ること、筆ムラも最小限にすること、にしてみることにした。正解は他にも無限にはあるだろうけれど。数学的図形を描きながら逆のアプローチをやってる巨匠に例えば、Terry Wintersがいる。筆跡残しまくり、線の歪みや色のはみ出しも許容するなど、いろんな豊かさが画面にある。改めて彼の表現力の高さが、自分の行為を通して見えるようになった。

・2層目を描き切った。すごい量の丸だったので作業的な達成感がものすごい。いや、そこには落とし穴がある。この達成感と作品の質は全く関係がないのだ、気をつけよ。いやいや、とはいえ、我ながらなかなか丁寧に仕上げられたとも思う。イメージをちゃんと絵に起こせた時には、なんかうまく言えないけれど、「像を世界に変換、定着させることができた!」と言った種の手応えがある。
 

 

制作メモ2023/10/27
・できるだけ精度上げ目にやってはいるものの、ひとつひとつの丸にどうしてもトレース&手塗りの歪みがでるので、もともとの硬質な球のようなイメージより、若干ゴムボールのような軟度がでてる気がする。これは意識してやったのではなく、手法からでてきた感触。

・同じように、4層目終了時点で、プロジェクターのズレもどんどんでている。アトリエ近くの鉄道に電車が通る度に床は揺れるし、プロジェクターの重みで若干床が沈むし、諸々の要因はわかっててもやっぱりこんなにズレるんだなぁという感じ。右上を合わせて描いてると、左下は数センチズレてることもある。
なので、今はだいたい右上、左上、右下、左下、とゾーンを分けて、ゾーン毎にプロジェクターを微調整して合わせ直したり、個々の群が滑らかに見えるように微調整したりして、全体がおかしなことにならないように苦心している。
たぶん巴山さんや他の数学者の方が見てもズレがあることはわからない(もしみただけでわかったらビックリする)くらいではあるはずなので、大丈夫とは思っている。
なのでこれも結果的に、微妙な多視点要素が加わってる。そんなことも「秘密の知識」に書かれていた気がする。カメラアイではこういうことは基本的に起こらないが、昔のカメラオブスクラでトレースをする場合、レンズの質や画角に限界があり、ピントが合う部分を少しずつ変えるなどの処置をして、若干パースがズレるという問題をわからないようにごまかしながら描いた形跡が残っている、みたいな内容(思い出しなので不正確かも)

・プロジェクターのズレを補正しながら、ひとの2つある目のズレのことを思い出す。予備校生時代、石膏デッサンを描いていると、右目と左目で像の角度が変わるので、このズレをどう画面に置き換えればいいのかわからず先生に聞いた。
先生は、「両目あけて何か小さいものを指さしてみて。指さしたまま、片方ずつ目を順番に閉じてみて。どっちかだけが指したものを指が重なってるでしょ。あー右ね。君の「きき目」は右ってこと。だから基本はきき目を軸に、部分部分で像を合わせて補正するんだよ」みたいなことを言われた覚えがある。
加えてデッサンは12時間とか同じ位置にモチーフと体を固定して描くわけだが、僕は姿勢が悪くピンをしてた背中も数十分ですぐ猫背になり、視線の高さも変わる。人間の知覚から平面に像を固定するにはこういう難しさがある。
人の視差の補正程度には数方向にズレた像を再統合しているので、視差みたいな感覚が絵の中に入ればラッキーなのだが、、。
そういえば、フィラデルフィア美術館にあるデュシャンの遺作も、二つの目で覗く構造ですね。

・そんなわけで、少なくとも丸の歪みと像のズレ補正2つの人間の手作業による「いい加減さ」が、描写の中に入り込んでいる。その要素がおもしろいと感じられれば、一応成功と言えるかもしれない。今のところ、おもしろいと思うんだけど、作ってる最中や完成した直後の自己評価は全く当てにならない。

・「解像度」という言葉、少なくとも自分の感覚に定着したのは、当時200万画素だったデジタルカメラを買ったり、Adobe PhotoshopやIllustratorを使い始めた2001年頃だろう。
そんな話を下世代にした際、「じゃあそれ以前のフィルム写真とかは、解像度で考えたらどのくらいなんですか?」と質問されて困ったことがある。後で調べてみたら厳密には言えないが、現像した薬品の粒子に準じており、だいたい4Kくらいの解像度はある、と何かに書かれていた。
絵画も物質そのものなので、解像度は無限というか存在しないというか。ところがそこには多重性があり、筆跡をピクセル的に見れば、解像度的な見方も可能だ。
モネやスーラの荒い筆致や点描は、筆致で像の解像度を下げることで面白さを獲得しているし、ヤンファンエイクのような面相で執拗に描写する高解像度筆致を人の手でやる驚愕もまたある。
今回の作品を「筆致の解像度」で考えれば、4k以上はある。4kプロジェクターで投影した画像は、丸のキワが少しボケており、それをくっきり描き起こしているので。画面の中で最小かつくっきり描いた丸の限界は、0.7mmくらいだった。この1mm周辺の極小丸がけっこうな存在感を出しており、細部が大事な高解像度的作品だなと思いつつある。ちなみに一層目の極小丸は、不慣れだったのでまだ質が粗く、見つけられるとちょっと恥ずかしい。

・「視力」もまた、絵画に関係する意外に大事な要素かもしれない。解像度にも似ているのかな。僕は両目裸眼でまだ1.5くらいあり、それでもかなり下がったほうで昔はずーっと2.0以上あった。なので、いろんなものがくっきり見える。それは、丸をクッキリ描く作風と無関係ではないのではないか。
リヒターはもちろん写真のピンボケを絵画化してるけど、あれはもしかして視力の低さも関係しているのではないか。
逆に、自分の作品が視力の低い人にどう見えてるのかをあまり想定したことがない。視力差要因による全く違う知覚のされ方をしているのかもしれない。画家による視力の話はあまり多くないけれど、シグマー・ポルケがジョーク混じりで網点と視力の低さの話をしていたり、千葉正也さんが視力が高すぎて全部描かないと嘘っぽくなる、みたいなことを言っていた。


 

制作メモ2023/11/10
・4層目が、全体の3DCG空間のちょうど真ん中あたりになり、中空構造で丸が少ないエリアになっていた。なので、これまで描いていた群れとの連続するかたちのほとんどが(画面上では)一旦リセットされて、5層目から新たな繋がりを描くことになっている。
これは嬉しい偶然で、ここで一旦プロジェクターのズレもリセットできるのだ。これまでの作業で、プロジェクターがどういう風にズレるのか、どう補正できるのかのコツみたいなものを掴んできている。
5層目を再度固定基準にして、もしズレたらここにできるだけ徹底して合わせれば、以降のズレも最小限にできる気がする。

・かなりの丸、及び丸の連続が作る曲線を描いてきたが、まだまだその曲線の構造を造形的に理解するには至っていない。描いていると、一つ一つの丸が全部同じ大きさではないのはわかる。5層目まで来ても、まだ極小の丸が出てくるので。そうすると、連続する曲線形の始まり部分の丸が極小から始まるということなんだろうか。そもそも曲線のどっちが始まりでどっちが終わりなのか。
気になって3DCGを開いて空間を移動してみると、急カーブで極小になっているところもあれば、そんなこともない曲線もある。曲線の端が必ず極小というわけでもない。どうも曲線によって、どういう大きさの偏移があるかはバラバラのようだが、一定のルール、主に曲線に対応してで大きくなったり小さくなったりしているように見える。

・それにしても、Touch Designer上で巴山さんが構成した、いわゆる陰影のない3D空間を改めて遊泳していると、曲線の特徴を追おうとするだけで遠くと近くの距離感がおかしくなって、面白い。もっと本当に人が自由に移動して滑らかで意図的にカメラを動かせるとしたら、この空間を撮影することで映像作品になりそうだ。

・6層目まで描いていると、いやあずいぶんカメラの近くまで来たなぁ、と自分が遠くから移動してきたような気分になる。最初の層から比べて、ずいぶん大きな丸がたくさん出てくるようになったし、透明層にもだいぶ奥行きが出てきて、最初の層が霞んできている。
普段の自作でも最初の層は遠くなっていくのだけれど、こういう空間の感覚は意外と起こらない。あくまで平面の重層で、色と形による空間のバグみたいなものを起こそうとしているので、今回のような正当な奥行き感がなかったなと改めて気づく。今後も意識的にこの奥行き感覚は使えるかもしれない。

・どこか最初の方で書いたかもしれないが、僕の使っている透明層は、若干黄色がかった色を持っている。例えるなら、炊く前の硬くて半透明の「米」くらいの黄味。これが、6層目までくると効果が出てきて、1、2層目くらいの色がもう全然違って見えてくる。より緑っぽく見える。大袈裟に言えば、セピア調を帯びている。
もう一つ、色で言えば、手前の層にいくほど、ほんの少しだけ白を多めに加えている。ほぼわからないくらいだけど、そういう演出もあり、誰の目にもわかるくらいには層の厚みが出ている。そして層を跨いで曲線がつながっている形を見ると、なんとなく狙い通りの奥行きが生まれているので、ちょっと安心した。実験モードでスタートしたけど、ちゃんとした作品になりそうだ。

・7層目まできて、いよいよ大きな円が増えてきて、終わりが見えてきた。マラソン感覚だ。プロジェクターのズレも少ない。寒さも増してきたせいか、2度目の風邪ダウンを経た上に、今度は身体のコリや腰痛。毎年この時期になるとこのような傾向、今回は細かい作業と絵の縦固定のせいでさらに変則的な身体の使い方なので、普段あまりこらない肩にもくる。思わず近所のモールのマッサージに駆け込んだ。1時間6600円。これも制作費の一部だ。中年作家との会話にも、健康の話題が増えてきて、こういうものなのかと軽い絶望を覚える。来週は鍼をうとう。

・今回の企画展関連で、デュシャン研究をされている中尾さんと作品やらデュシャンやらの話をしたのだが、その中で、やっぱり美術の訓練を数千時間やってきた人には、その人たちがなぜか共有できる、言語に属してない良し悪しの感覚とか造形の捉え方の感覚があって、そこを見落とさないように、みたいな話。そうなんだよな、今作ってる作品にしても、透明層の厚み調整とか、色調整とか、塗り方とか、なぜなのか明確に説明できなかったり、制作意図には入って来ないけれど譲れないこだわりポイントみたいなのは確かにある。


 

制作メモ2023/11/13
・手前の大きな丸になるほど如実にでてくる問題として、プロジェクターで映している丸が正円でない、というのがある。データの時点でなぜか少し縦長になってる丸があり(カメラが広角設定とか?)、それをさらにプロジェクターを通すと、かなり楕円になる。そのため、ここは自身で正円に補正して描くことになる。最初の層からある問題なのだけど、丸が小さいとそこまで気にならないし補正もしやすい。1番手前の残り数10個には、特にひとつひとつのボリューム感や、円の精度が目につきやすいので、これまでとはまた別種の緊張感を持って描かねばならない。

・全制作プロセスの中で、他の誰にも任せられない、僕自身にしかできない作業のひとつが、透明層を塗る作業だ。横向きになるべく並行に効率よく均等な厚さで塗るのは、なかなか難しいはず。この技法を使い出して最初の頃は、キャンバスの端の透明層の厚みが薄すぎて、前層の描写がヤスリがけで削れてしまったこともあるし、大きな作品だと筆跡がだんだん斜めに傾いてしまったりもした。
今ではそんなこともなく、感覚で層の厚みも微妙にコントロールできるようになった。他に大した応用も効かない技術であるが。

・たぶん、同じ構造で、3DCGでもっと細かく、50層くらい?とかに空間をわけて、透明な塩ビシートなんかを50枚用意して、各層を一枚ずつUVプリントで印刷して、広い空間にキレイに順番に吊れば、それはそれでもっと空間感が強調されてひとつの面白いインスタレーション作品にもなりそうだな、などと考えてみる。
それと今回のように絵画作品にすることの違いは、絵画といういろんな前提や絵画を描く人の作業を通した熱のような何かが乗り移りが宿るか宿らないか、みたいなところくらいなんだろう。ただそこにこそ微細なニュアンスが含まれて、抽象具合も増すはずで、鑑賞者にもなんとなくそのへんが感じられることが、おもしろいところなんじゃないか。


 

制作メモ2023/12/06
・なんとか完成した。中年の身体にはなかなか堪える作業で、後半には知り合いの鍼灸師さんに鍼を2回打ってもらった。いつもいつも、作業量や予算の見積もりが甘すぎると思わざるを得ない。

・できたばかりの作品は、自分では全く客観視できないという前提で、現段階の感覚を残しておく。
どこかの段階で書いた、手描きゆえの円の柔らかさの懸念は、出来上がってみるとそんなに感じない。硬さの感覚よりも、発光体のようなもっと抽象的な記号になっていると思う。
レイヤーによる奥行きはよく出ており、データと比べるとそこがやっぱり決定的に違うのだが、今回の作品で良い意味で変なところは、レイヤー毎で空間をぶつ切りにして、同じ層にある円は階層がないため、3Dデータ上では位置が違っているのに、ベタ塗りのまま連結していて、これは僕の作風から派生した謎要素である。
加えて、一つ一つの円の大きさは、距離に比例しているわけではない。もちろん遠い円ほど小さく見えるのだけど、それとは別に各曲線の性質によっても円の大きさが変化している。その二つの要素が混ざっているため、遠いのか近いのかがわかりずらい箇所が少なからずある。ここも結構面白いと思う。
締切が早まって最後のニスを若干急いだのもあり、ツヤの調整はまだまだアップデートできるかもしれない。
メディウムの性質上、背景色が最終的にはだいぶくすんだ色になることは最初からわかっており、それも考慮した色彩設計をしていたつもり。それでも最後のくすみ具合は完璧には予測できない。結果的には、想定よりもくすみが強くなったが、気泡の粒々でいい感じに奥の円がぼやけてるし、メディウムが持っているお米くらいの黄色味が、微妙なセピア調を帯びていて、それが今回円の色に設定した青緑と想定していたより相性が良かった。

・ちょうど、キャンバス絵画とUVプリントの話題が対談されている記事を見つけた。
[サンエムカラー
アーティストたかくらかずきと弊社プリンティングディレクターの制作対談]
https://www.sunm.co.jp/topics/news/4800
、、、記事の中に「データで作ったものをプロジェクションしてわざわざキャンバスに肉筆で書いたらアートピースとしてOKだとか、印刷物でも上から絵の具で加筆することでユニークピースとして成立する、というアートワールドのルールに疑問があって、どうしてもその流れには乗りたくなかった。とりあえず絵の具がついてればアートピースとして成立するってのはおかしな話だなと。デジタルで一生懸命に描いていても、デジタルというだけで簡単でお手軽、誰でもできると思われがちなので、そんなことはないぞと。僕はデジタルそのものに価値を持たせたかった。そこでサンエムさんと一緒に凹凸でプリントすれば、キャンバスとしても成立するし、現代のそういったアートピースとデジタルデータをめぐる「決まりごと」にも疑問を投げかけることができるぞ!と思いました。」
という記述があった。
アートワールドのルールとしてプロジェクションして筆で書いたらOKとか、印刷物に加筆知れば成立、とまでは僕は思っていないけど、言いたいことはよくわかるし、似たような問題意識も持っている。それもあって、今回のFlowはプロジェクターを使った描き起こしをしつつ、前作Organismでは巨大に印刷したバージョン、メタバース上でのデジタルデータままのバージョン、今回のUVプリント化までを試してみた。同じデータを使っていても、それぞれのアプローチごとに必ず差異が生まれる。それこそデュシャンのアンフラマンス(極薄)に出てくるような、2つの同じ工業製品にもそこにはアンフラマンスが存在する、みたいな話で、手で描いたり絵具をつければアートになる、という話ではなくて、差異にできるだけ敏感に反応し、作品として的確な選択をすることが大事、ということではないか。