YUKI YAMAMOTO山本雄基

目の中の至福―豊潤な層と色の絵画

降旗千賀子 (目黒区美術館学芸員) / 2015
1.出合い

 対峙する画面の内なる「層」が持つ距離と、その中で浮遊しながら目に映る「色」について書こうと思う。
 私が山本雄基の作品と初めて出会ったのは、2013年に東京で行なわれたアートフェアの会場だった。広い会場を一回りし、何人かのギャラリストと話をして、疲れた目をこすりながら帰途につこうと思ったその時、角のブースから、やわらかな光を放つ作品が目に飛び込んできた。大小さまざまな円がリズミカルに構成された画面が並び、色の浮遊感があたりを包んでいた。目の疲れによってそれがさらに助長されるような不思議な感覚に陥った。
 その作品は、円が幾重にも重なっていて、しっとりした色の光に充ち、目に吸い付くような柔らかい質感を持っていて、今まで出会ったことのない感覚の作品だった。よく見ると、その矩形の表面には、色が与えられた円と、透明に切り取られた円が前後に複雑に絡みあい、透明なメディウムで積層されている。わずか数ミリの厚みしかないのに、圧縮された距離と底に封じ込められたものから湧き上がる光を感じるのであった。カラフルであり色には湿度がある。そして、その何層にもわたる円の縁には、うっすらとにじみかぼかしのような影が認められた。
 作家が話しかけてきた。しかし私の目は、お構いなしにひたすら画面の奥行きのある円を追うことに集中していた。しばらく見ていて、以前考えていたこんな事を思い出した。夜空の月。月は、反射光によりそれ自体が、こうこうと光ってあかるい。その月の光は青い影を地面に落とす。円い月をじっと見ていると、図と地の関係が判らなくなる感覚に襲われるときがある。円い月が黒い闇に貼りついているようにも見えるし、はたまた、そこが切り取られぽっかり穴があいているようにも見え、そこからいろいろな物語を考えるのが私は好きだった。「月」と「私」の間の空気がとても澄んでいる時、逆に湿度を含んだ空気が深く辺りを包むとき、周りに光彩を放つ月の見え方は、まったく異なってくる。そして「月」と「私」の間には、はるか384,400kmに渡る目に見えない一本の線があり、その間に無数の星が存在し、それは「私」と「月」の間に浮遊しているといえる。それをイメージの中で圧縮してみる。さまざまな星が放つ光が一気に圧縮されると、今、目の前にある作品のように、こうなるのだろうか。アートフェアの会場で、そんな思いを巡らせながら山本雄基の作品と向かい合った。

2.凝縮された距離

 山本の作品を視てイメージした「月」と「私」をつなぐ1本の線にまつわる概念は、私が影響を受けた、デザイン・クリエイターが、およそ50年前に制作したフィルムのイメージによっている。それは、ミッドセンチュリーのアメリカで活躍したデザイナー、チャールズ&レイ・イームズが制作した16ミリフィルム「パワーズ・オブ・テン」(1968年)。アート&サイエンスの分野では、今でもよく取り上げられる名作で、わずか9分ほどの短編映画だが、宇宙から素粒子までの距離を旅する壮大な映像である。邦題は「10のべき乗」と訳されている。
 芝生の上で昼寝をしている男の手の甲のある1点から、画面は10x10mの枠をキープしつつ10の2乗、3乗、4乗・・・と距離と速度が連動し、地球から24乗(1億光年)離れ、私たちは宇宙のかなたに到達する。次はさらにスピードが加速されわずか1分で元の男の手の甲に戻り、次は、手の細胞の中へマイナス16乗の炭素原子にまで到達するという、宇宙から素粒子までの時間と距離の旅である。まだCGのない時代に実写とアニメーションを駆使した手作りのこのフィルムは、現代のコンピュータ上のレイヤー構造を予感していたともいえる。この映画のユニークなところは、壮大な距離が間にあるが、こちら側は常に最初の手の甲の1点と向かい合っていることだ。果てしない空気の層と時間の層の捉え方。山本の作品を初めて見た時に思い出した「月」と「私」のイメージの背景には、時間と距離を圧縮したこのイームズの映画がある。
 実際、山本の制作は、丁寧に、一層、一層をレイヤーとして造りこんでいる。最初の基底材の地塗り層から表面の層に到達するまでの、わずか5〜10ミリ程度の厚みには、実に周到に計画された制作の時間が凝縮されている。筆で描き、マスキングしてまた描き、削ることを繰り返しながら「描く」。キャンバスを横から見ると、その層の断面がとても美しい。表面を見つめ、幾重にも層を重ね組み合わせていく。この山本の手法は、いわゆるデスクトップの発光する画面の中で何層にも積層していく情報と画像のレイヤー構造を思わせ、現在のメディア表現の手法と重なるところもある。年齢からいって山本自身も今の電子メディアによるレイヤー構造の考え方については通底しその親和性を語っているが、作業は徹底してアナログ的であり、物理的な平面に壮大なイメージの奥行きを描き込んでいることを考えるとそれは絵画的といえる。

3.浮遊する透明な色の美しさ

 山本の絵画を見た時に私が最初に感じた不思議な色の感覚とはなんだったか。冒頭で、しっとりした色の光に充ち、目に吸い付くような柔らかい質感を持っている、と私は表現した。山本は、アクリルメディウムと絵具による透明な層と色彩豊かな円を重ね、そこにマスキングを施していくことで円の構成と色を操っている。一見ランダムでオートマチックにも見える作業の繰り返しで、山本は緻密なイリュージョンを平面上に表わそうとする。
パレットでは混ぜず、色のストロークをそのままキャンバス上で、並置、重ね、集合させることにより、網膜の中で色を混色させて絵画を描いたのは、印象派・新印象派の作家達であるが、山本は、色を透明な層の間に積層していくことによって、立体的な色の奥行きを作って混色している。そこに光が当たることによってわずかな層の間に、影や光と色のイリュージョンを起こし、対峙した人の目を引き付けていく。こうした山本の手法により目の中で生まれた光の混色は、色の彩度と明度が高い。こうしたことが画面における色の浮遊感へと導いているようなのだ。
作品『Stratified Circles (6colors/3squares/50Dots)』(fig.01)を見てみると、ルールを定めた円の配置を基本としてイメージを拡散させながら作りこんでいる、色と光の混色の周到な仕掛けが見えてくる。大きさの異なる3種類の円を大中小の正方形に並べずらしていく。円のマスキングがほどこされた色の層は6色あり、その間に透明なアクリル絵具による層が加わっている。マスキングする円の形と位置、層によって、見えてくる色が異なり、層の重なりの数によって混色される。もっとも大きな面積を占める茶色に見える部分は、6色すべてが層として重なることで視覚的に混色されているので、明度は低くなるものの色の彩度は保たれている。
色のある円はそれ以降の色がペイントされるときに同じ場所の円がマスキングされて透明な層だけが重ねられるため、その下の色が見えることになっている。白く見える透明な円は、一番下の層から一番上の層までマスキングすることによって表され、積層された層の円の縁から色の影が不思議なにじみを表わしている。こうした色の奥行きと配置をしっかり考えることで、絵画空間としての奥行きと広がりを作りこんでいる。
さらに、山本の色の配置をよく見てほしい。彼が穿つ透明な円に対しての色の円の配置は、近代絵画の作家たちが、気を配ってきた色を携えた形の配置を彷彿させる。たとえば、赤という色にひたすら注目して泰西名画を見たときに、マチスは、画面の中に置く赤の位置と面積を、隣接する色とのバランスを見ながら見事に配置している。小さくても主張する赤、大きくても他の色を受ける赤。そうして、見事な画面のバランスをつくっている。
『Parallel Circles (two)』(fig.2)では、一見ランダムに配置された円にみえるが、画面に存在する一つひとつの円はその位置が注意深く確保されていて、その円が一つなくなっても成立しなくなる。特に赤の円の配置は、十分に考え抜かれている。円だけで描かれているのだが、吟味された色と円の配置の必然性によって、絵画としての風景が成立しているようにみえる。
円で描くこと、マスキングを施すこと、透明層を重ねること、こうしたいくつかの制約を自らに課し、絵画表現としての奥行きを表現していく姿勢は挑戦的といえる。山本の絵画における、画面が持つ内なる層とその中で浮遊する色を視る目の旅。さらに新しい展開を期待したい。

fig.1, Stratified Circles(6colors/3squares/50Dots), 2014,
fig.2, Parallel Circles (two), 2014