YUKI YAMAMOTO山本雄基

山本雄基作品は絵画ではない? 〈二重のノスタルジー〉

伊藤隆介 (北海道教育大学教授、映像作家) / 2015
山本雄基の作品には、様々に相反する性格が同居している。
 難解そうな抽象絵画と、商品としての通俗性。素っ気ない幾何学的なパターンと、優しい色合い。樹脂の持つ物質性と、手描きの味わい。そのバランスは人によっては無条件の魅力に感じられるのだろうが、僕にはどうも居心地が悪い不穏さが感じられる。
 山本の作品世界はあからさまに社会状況と無縁なので、その網膜的な愉悦や造形性について語るのが正攻法だろう。が、いまどきの若手作家としては(鬱陶しいまでに)絵画論好きである山本を知る僕としては、ここではあえて「副音声」的に、そして思考実験的に、その仕事をなぞってみようと思う。

 円をめぐる幾何学的な図形をモチーフとし、タイトルからして「invisible space」「みえないみえる」と見ることにこだわる山本雄基の作品から、ヴァザルリに代表されるオプ・アートを連想することはたやすい。平面上に三次元的な空間(山や部屋など)を再現するのが具象絵画だが、オプ・アートの主題は視覚的錯覚である。つまり再現性の低いモチーフ(図形など)が選ばれ、三次元的な空間感や動きの感覚だけが抽出される。(モチーフが現実に存在するもので、視覚効果が強調された娯楽が「トリック・アート」ということになろう。) 山本作品のイメージの立体性とは、両目の視差が生み出す3D感に加え、鑑賞者の視点の変化からも得られる。静止した絵画というよりは(ホログラフィと同じく)時間表現であるとも捉えられる。映画という新興メディアを使い、幾何学的なモチーフと動き(時間)によって空間を表現した、1920年代の絶対映画作家(ハンス・リヒターら)やオスカー・フィッシンガーといった画家たちと同じ問題意識を共有していると言えるだろう。
 一方、絵画は絵画という物体以外の何ものでもなく、現実の再現は本来の属性ではないという視点で、空間感などのイリュージョンを否定する抽象表現主義の絵画論に身をおけば、キャンバス上に絵具を盛るのではなく、染み込ませたモーリス・ルイスのようにイメージと物体を一体化する模索もある。その流儀に従って山本の作品を見れば、イメージは絵画の表面の、さらに奥深くに樹脂や絵の具が積層されていると言える。絵画にジオイドがあるとすれば、海水面の下、マイナス地点に展開する絵画だ。戦後絵画史における平面性の論議を引き受けつつ、平面性よりも薄い(というか凹んだ)空間において、オップアート的な視覚の例えを行っている。ポップアートの明朗な色彩すらも引き受けて、絵画(論)史上の一種のアクロバットを行っているのが山本だ。
 が、現実の絵画史の教義はミニマル・アート、コンセプチュアル・アートを経て物質性を滅却する。それでは商売にならないから、1980年代には古いイメージへの回帰なのにニューペインティングと呼ばれる反動が起き、その先はポリティカル・コレクトネスの時代を迎えて、どう「描かれるか」より何が「書かれているか」が重要な時代になった。つまり、絵画論への耽溺を可能にしてきた美術、世界そのものが俎上に乗ったということである。また、物質性が皆無な純粋な平面であり、現実社会にある固有の事象の再現ではなく、しかし説得力のある表現空間を生み出すという絵画論の妄想は、いまやピクサー社などのCGI(3DCG)が実現している。
 すなわち、古い「絵画論」は終わった、というか現実によって乗り越えられているのだが、山本の作品中では未だに絵画(「美術」ではない)に関する論点が(かなり真摯に)続行中であるように見うけられる。そもそも洋画とはそういう存在なのかもしれないが、ブラジルにおける「勝ち組」あるいはフィリップ・K・ディックの小説「高い城の男」のような、一種のSF的な状況の絵画とも感じられてくるのである。つまり、ノスタルジックなモダニストの意思が、造形的な(日常的な)説得力と共に進行中で、鑑賞している我々の時代意識(現代)と拮抗してくるのが、山本雄基作品の不思議さなのである。

 そういう見立てで、山本雄基の作品を再度眺めてみたものの、違和感もある。
 「マイナス地点」とは書いてみたものの、作品表面から何ミリほども奥には本当の支持体(板)が存在し、その上に樹脂のイリュージョンが幾重にも展開しているのだろう。オプ・アートや抽象表現主義の先行作家たちが、あくまでイメージ(平面)の中で三次元空間というイリュージョンをどう再現するか、心理的な重層性を創造するかに腐心していたのに対し、手描きの図形による数ミリの空間が実際に封入されている山本絵画とは、言ってみれば「ズル」である。
 山本絵画の画面の重層性とは、主には物理的(化学的)な奥行であるから、絵画論のルールを準拠しているというよりは、(壁に掛けることのできる)極薄の立体作品を制作していると言える。ラウシェンバーグの仕事であれば、自動ドアの作品「リボルバーII」(1967年)や「至点」(1968年)に近い、絵画というより透明なオブジェなのである。絵画6枚が立方体状に組み合わされ、かつ各面に深さが展開し、立方体と外界の境界が曖昧に感じられてくる初期の立体作品、たとえば「closed painting」(2005年)※fig.1 は、今後、山本作品の本質を考える上で重要な作品になってくるだろう。
 絵画論(マニア)の呪縛から逃れて、立体作品として山本作品を見た時にはっきりしてくるマチエールの面白さとは、やはり半透明、透明の素材である。大理石などと違い、科学的に製造された素材でありながら、手仕事(ヤスリ掛け)の味わいがあり、しかし工芸性は魅力だけれど製品ではない。透過性の高い材料といえば思い浮かぶのは、ジャスパー・ジョーンズやヨーゼフ・ボイスが駆使する蜜蝋などで、山本作品の手作りの透明感というのもその系譜に連なる。熱との関係や流動性が論じられがちな「脂肪の椅子」(1963年)などだが、ボイス芸術の凄みとは造形的な説得力、蜜蝋に代表されるフェティッシュな感性による。
 山本が使用するアクリル系の樹脂の登場は第2次世界大戦前夜。アメリカの戦闘機P-51ムスタングのキャノピー(風防)は、従来の風防枠を持たないプレキシグラス一の体成形による流線型で、技術力、生産力によるアメリカの覇権を予言するような未来的な形と素材であった。美術やデザインの世界でも、アクリル樹脂に日常品を集積、空間に氷結させるアルマンのオブジェ群、座面と肘掛けに封入された造花の薔薇が舞う倉俣史朗の椅子「ミス・ブランチ」(1989年)など、樹脂の透明性と、そこに生じる重層的なイメージとはそのまま20世紀が持っていたユートピア的な可能性の魅力である。山本が自作において引き出してくるテクスチャーの、化学製品でありながら感じられる暖かみとは、「かつての未来」に対する歴史的な素材感覚のようにも思えるのだが、どうだろうか。
 
 山本雄基の創作に横たわるのは二重のノスタルジーだが、古くさいと言いたいのではない。
 山本作品では、カラフルだがそっけない図形(多くの場合は円)が、目の前に存在する。が、この円は樹脂の中に封入されており、「触れられない」というフラストレーションと、触れられないことを受容する穏やかさという、異なった感情を喚起する。あるいは、円と思ったものが、外部の形から描き出された円の輪郭(円の定義とも言い換えられる)だけであったりする。それぞれの円にはまた、固定されていながらはかなげに浮いているというイリュージョンも加えられている。どちらにせよ、不在である。ジョーンズのアメリカ国旗や標的は、記号の持つイデア的な造形を絵にしてみることによって不在を明確にする(つまり、「ホンモノ」は無い)というシニカルな視点だったが、山本作品から特徴的に伝わってくるのは、むしろ所有できないものに対する憧れ(や諦め)である。
 2014年、山本は「parallel circles(concentric)」※fig.2 というシリーズを制作している。これらは明瞭にジョーンズの「標的」の引用へのオマージュであるが、そこではさらに「論点の不在」「論点への憧れ」が濃厚になり、造形性と手仕事のだけが中吊りになっている。引用といっても1980年代のポストモダン絵画のような、無作法で無秩序な折衷主義というわけではなく、そこに漂うのは美しさの中にある、アンビギュアスな退嬰性とでも言うようなものだ。
 つまり、山本雄基の作品は間違いなく我々の時代のある種の鏡であり、僕が彼の作品に感じる居心地の悪さもそこにあるような気がしている。そして、山本雄基の作る「状況」の展開に、眼が離せない理由というのもそこにあるのだ。
fig.1 『Closed Painting』, 2005, 24×24×24cm
fig.2 『parallel circles(concentrate No.3)』,2014, 30×30cm