YUKI YAMAMOTO山本雄基

山本雄基の絵画

市原研太郎 (美術評論家) / 2017
1.ポスト・リヒターの絵画
 ゲルハルト・リヒターの後で、絵画について何が語れるだろうか?
リヒターの登場で絵画が終わったと無責任に吹聴したいのではない。また、リヒターが高い障壁となり、現代絵画の行く手に立ちはだかっているとはいえ、それを乗り越えることが不可能だと、シニカルに突き放したいのでもない。
 しかし、リヒター以後、彼より若い世代のポストモダンの画家たち*1のことごとくが、リヒターの指差した道の先を進むことができなかった。とくに1990年代以降、その可能性のあった画家たちが、その道を引き返したり脇道に逸れたように思えてならないのである。
 この絵画をめぐる歴史的光景を目の当たりにして、あらためてリヒターの天才ぶりを擁護することは無駄ではなかろう。絵画の歴史で、ダ・ヴィンチやレンブラントのような天才がいることを承認するなら、現代に天才がいると結論することは理に適っている。画家といえ一個の人間が時代の制約のなかで、どこまで絵画を成熟させることができるか? その限界を惜しげもなく披露してくれるのが、天才と呼ばれるアーティスト*2である。その類まれな天才の一人が、リヒターなのだ。もちろんリヒターの場合、歴史上具象・抽象絵画の長く困難な試みがなされた後に絵画で何ができるかという問いに対する誠実で一貫した応答が、作品に結晶化しているのだが。
 このようにリヒターを持ち上げることで私が言いたいのは、リヒター以後に真正な絵画は存在しないということではない。にもかかわらず、時代は前(未知の未来)に進む。そうであれば、古典時代の終わりに生きたゴヤの後にモダンの黎明期のドラクロワが出現したように、リヒターの後に次の時代を切り拓く何者かが登場したとしても、一向に不思議ではない。
 その候補となるようなアーティストが、何人か頭に浮かぶ。たとえば、具象ではVictor Man(ヴィクトル・マン)。抽象ではWade Guyton(ウェイド・ガイトン)。具象と抽象の折衷ではGedi Sybony(ゲディ・シボニー)など。しかし、彼らがそうなるかを見極めるには、まだ時間の経過が必要だろう。
 とはいえ、様式にせよ技法にせよ内容にせよ、表現のパラダイムとしての絵画の可能性は、その歴史が長大であるために残されていないかもしれない。これが正しいとすれば、絵画は過去の手垢のついた表現手段を除いて新奇なものが誕生することはなく、この状況で絵画を描いたとしても、歴史上の絵画の苦々しい反芻を確認することになるのではないか?もちろん、それはそれで構わない。絵画をノスタルジックに懐古することだって立派な仕事、つまり絵画の喪に服することになるのだから(服喪は、一定の期間だが)。まさに、リヒターが先鞭をつけたポストモダンが、過去の歴史に展開された絵画の様式や内容を臆面もなく引用し、新しいことがないことが新しいと確信犯的に宣言した。その完成、つまり歴史のアーカイヴに利用できる在庫が空っぽになった状態(それを終焉と呼ばずしてなんと言えるだろうか!)が、ようやく21世紀の今頃になって実現の運びとなったのだ。


2.実在論としての絵画
 そこに山本雄基が、「北の国」からひょっこりと自前の絵画を携えて登場した。
 彼の絵画を分析するとき、リヒターの表現の根本にあるイメージの問題が浮上してくるが、それは後に回して、まず最近の有力な思想的潮流である「実在論」*3を踏まえて、山本の絵画表現の特徴を簡潔に説明してみたい。
 対象(ここでは絵画)を現象としてではなく、実在しかも素朴ではない対象として検討してみれば、「実在論」では、対象は意識の相関項(媒介)としてではなく、その存在に注目しなければならないとされる。まず山本の絵画制作では、単純だが明確なルールがあって円を基本的要素とする表現が生成される。そのルールがどのようなものかは、どうでもよい。そのわけは、それが無意味だからではない。むしろ、鑑賞に隠された重要な機能を果たすよう設定されている。しかもそれは、鑑賞者の意識に引っかからない巧みな構成へと導く。つまり、そのルールは表現を紛れもなく実在させるが、鑑賞者に意識されないかもしれないということである。
 もちろん、画家から作品の生成システムを教示されれば、鑑賞者はどのようにして表現が成立するかを納得できる。当然、その絵画の構成を実在するものと理解する。だから、それは鑑賞者の無意識にあるのではない。当然、意識下でもない。鑑賞者の知覚を、無意識と同じく意識下に追いやる理由はないからだ。同様に、それは意識の外部ではない。意識の外部にあれば端的に絵画の鑑賞に貢献しないので、表現の構成要素として認められることはないからである。
 したがって、様々な大きさと色彩の円を基本的な構成要素とする山本の表現は、意識の辺縁、言い換えれば明確に意識されないが、それらの要素の実在的な関連(ルールに則った)の効果で、おぼろげに意識される。その上、その連関をさらに押し広げていくと、山本の設定したルールは通用しなくなるかもしれないが、鑑賞者の意識を完全に越えることになろう。
 その生成のシステムがあり、少し踏み込んで言えば、意識であれ無意識であれ構造主義の構造ではなく、その構造を超えたルールによって生成した《構造》があるからこそ、鑑賞者は作品を確実に感受するのである。これは、山本の作品が鑑賞者の意識に明瞭に知覚される範囲を越えていることを意味している。鑑賞者は、その潜在的構造を等閑視して表現を理解することはない。それを前提にして表現を意識にもたらすのだ。山本の絵画に関するこの実在論的解釈が正しいとすれば、彼の表現は意識を越える。絵画の現象面に限定されることなく、現象を捉える意識の中心から薄明るい辺縁を経て、その外部(《構造》の外)の暗闇まで遡及的に拡張されるのである。


3.再び、イメージの問題圏へ
この実在としての山本の絵画は、不可視の実在から取って返しイメージのなかで展開されるのである。
このイメージが逆に遡行して実在とどこまで接触できるかが、彼の絵画に懸けられた賭金ではなかろうか? なぜなら、後述するように、彼の絵画の強度が、画面のイメージとそれに結びつく実在との間の緊張感によって測られるからである。実在とイメージの間に張り渡された透明な糸のテンションが強ければ強いほど、彼の絵画の表現がいっそう際立つのだ。
これから山本の絵画を、具体的に調べていく。
 まず彼の絵画を前にして、次のような素朴な疑問が生じる。画面内の平面の積層によって形成される半透明な奥行きある空間は、物差しで計測できる物理的な空間なのだろうか? それは違う。絵画の物理的な厚みより、鑑賞者の視座から知覚される絵画の奥行きのほうがはるかに深いと感じられるからだ。それゆえ、この奥行きは客観的認識ではなく、想像された空間である。ならば、この想像された空間は、現実であれ幻想であれ、他の世界のどこかにある空間の再現と言ってよいのだろうか?
 この疑問に対する答えは、明瞭に作品に現象している。山本の作品の基本的な構成要素である大小様々な複数の円が並置され重なり合った錯綜する空間を、現実世界のなかに見出すことはまずない。さらに、円とそれを取り囲む空間の重層化が作り出す半透明な空間を、現実世界で再構築することはほぼ不可能である。
 では、それが現実世界の再現ではないとして、非現実世界の再現、つまり幻想であることは可能だろうか? それはあり得る。そうした幻想を絵画で演出することが、山本の目的ならば。しかし、先述したように彼の絵画は、作品を知覚する意識の延長上で、意識の埒外が潜在的に含まれている。この包含関係は、非現実の想像(幻想)では表現できない。幻想的な絵画は、本来可視的な要素のみで完結するからである。幻想は作者が幻視したいものを、画面上に十全に可視化することで成就されるのだ。幻想は、作者の欲望が現実化したい世界の再現である。それゆえ、この幻想はしばしば奇怪な超現実の様相を纏うが、鑑賞者にどこか底の浅い印象を残す。その表現には、可視的(意識的)な部分を支える裏の不可視な部分(意識の外部)がないのである。
 山本の作品には、この裏への配慮がある。確かに、表現は彼が恣意的に適用したルールに従ってモデル化されている。しかし、このモデルは、現実の再現でも幻想の再現でもない。とすれば、それは非再現的空間(「指示対象のないイメージ」)ではないのか?
この「指示対象のないイメージ」こそ、リヒターが生涯をかけて追究してきたものである*4。それを、山本は彼の絵画で実現している。ということは、彼はリヒターとすでに肩を並べていると言ってよいだろう。もちろん、彼の先行者のリヒターとは別のやり方で。だが山本はリヒターを凌駕しているだろうか?
 ところでリヒターを凌駕するには、リヒターが実現しようとしてやり残したものが何かを知らなければならない。リヒターが徹底して表現にもたらした「指示対象のないイメージ」に欠如しているのは、マチエールの消去である。モダンの痕跡の証拠隠滅を、リヒターは忘失した。その足跡がよく残るのは、彼の抽象画である。これが、リヒターの時代に固有の制約、どのような天才であれ神の領域には到達できない人間の悲しき限界(しかし、その限界を極めることは大切であるとすでに述べた)である。
 もし、山本がポスト・リヒターの画家なら、そのリヒターがやり残し、彼以後の画家が挫折したか立ち止まった、当の地点から先を目指すことが期待されるだろう。
その期待の延長上で、山本がその歩を進めるに当たって、ある疑問を提起したい。彼が意識の外部の実在と関係を結ぶ表現行為が、実は表現の裏側に通じる境界で、現実世界との関係を復活させるのではないか? 彼は、リヒターが表面的に手を切れなかった物質存在(マチエール)とは断絶してみせたが、表現の底でそれに接続しているのではないか? しかしこれは、山本の実在論的絵画からの必然的な帰結である。
 だからだろうか。彼の作品を鑑賞するとき、種々の豊かな色彩が舞う視界のなかに引き込まれるような鈍い感覚が意識されるのは。
 言うまでもなく、これは彼がアートにおいて不正を働いているということではない。現実世界に生きる人間が物質と手を切ることが、いかに困難かを示しているのだ。現代の人間として山本がなし得ることは、彼が絵画の前面にもたらした「指示対象のないイメージ」の強度を増大させることで、現実と手を切る(そうすれば単なる幻想に陥る)のではなく、現実の存在(実在)との関係を断つことなく、その緊張をますます強化するようイメージを編成することである。そうすれば、ちょうどイギリスのロマン主義の画家ターナーがプレモダンとモダンの狭間で、再現と非再現の表現を混在させることによって画面に緊張を演出し、その時代の表現の主唱者となったように、山本は現代アートの主唱者の一人になるのではないだろうか。


[注]
*1 彼らがポストモダンと分類されるのは、リヒターが、少なくとも絵画表現におけるポストモダンの方向性を指し示したからであり、それ以後の絵画が、リヒターの到達した地点を、たとえ斜に構えてでも参照せざるを得ないだろうからである。

*2 たとえば、私が2015年パリのグランパレで鑑賞したベラスケスの回顧展で言えば、彼の作品を前にして看取されたマルガリータ王女やインノケンティウス10世などのモチーフの描写の強度の並外れた限界である。

*3 参考にしたのは、ヒューバート・ドレイファス/チャールズ・テーラー『実在論を立て直す』(村田純一監訳、法政大学出版局、2016年)である。

*4 「指示対象のないイメージ」については、拙著『ゲルハルト・リヒター/光と仮象の絵画』(WAKO WORKS OF ART、2002年)を参照。