YUKI YAMAMOTO山本雄基

「新しい作品」考 山本雄基の一側面

鷲田小彌太 (哲学者) / 2014
どんなジャンルであれ、「新しい作品」に出会うと、いつもというわけではないが、不安になる。一つは作品の行く末に、二つはその作品に脅かされる自分に対してだ。
絵画では、時代を前後するが、ともにオランダで生まれパリで活躍したゴッホとモンドリアンの作品に出会ったとき、不安と驚嘆とが最高潮に達した。10代のときだ。そのとき以降、具象抽象を問わず、この二人の作品が絵画鑑賞判断の基準になってしまった。

ゴッホ(1853~90)は数多くの傑作を残したが、無名かつ不安のうちに没した。モンドリアン(1872~1944)は「コンポジション」(1921)でモダンアートを切り開く。ともに「断絶性」という刃物で世界を震撼させ続けてきた。そのモンドリアンを再意識したのは、1970年代にソシュール『一般言語学講義』(1916)を繙読したときだ。「差異」と「関係の絶対性」が最新哲学のキイワードである。哲学のモンドリアンがソシュールなのだ。

 山本代表作「曖昧のあわ」(2009)を初見し、「みえないみえる」(2008)に戻って、不安と平安(癒やし)を味わった。山本の作品も「差異」と「関係の絶対性」を大前提とする現代性のなかにある。だがモンドリアンとはあまりにも対照的なのだ。
山本の「泡」あるいは「璧」の重層からなる連作のコンポジションが、理念的には、哲学の創始者プラトンの「オン」(一)と、近代哲学の代表者ライプニツの「モナド」(単子)につながっているからだ。ともに単形の「原基」で、どこにもあるがどこにも見えない「実体」といわれるものだ。

 深読みをおそれずにいえば、山本作品は、DNAのように、無機から有機が、有機から生命が発現するような、飛躍と連続、未成と完成、欠損と全一の重層関係である、「重層的非決定」(吉本隆明)を表出しようとする。ただし「見えるものと見えざるもの」(メルロ=ポンティ)の理念を「調和的」に表出しようとする作品の展開で、その作品に「新しい作品」登場予感への期待と、避けがたい不安を抱くのはわたしばかりではないだろう。
「赤、黄、青と黒のコンポジション」
ピエト・モンドリアン
1921年
「曖昧のあわ・みえ得るところ」
山本雄基
2009年