YUKI YAMAMOTO山本雄基

絵画についての覚書

山本雄基 / 2018
1960年代の終わりに盛んに言われた「絵画の終わり」とは、いわば「絵画とは何か?」という問いに対し、普遍的な答えは存在しない、という証明が完了したということだ。モーリス・ルイスのステイニングですら、キャンバスの厚み自体からは逃れられず、平面という概念に矛盾を帯びることになる。絵画を絵画と断定するための固有の性質を定義することは不可能であり、絵画という形式はあれど証明のしようもないという特異点のような存在となっている。その特異点に対しそれぞれの画家が個人的に解釈を与え、半ば強引であったとしても造形的な説得力を持たせることが「絵画の終わり」以降の絵画の命題のひとつとなっている。その解釈は、痕跡や選択された形態、つまり作品そのものに必ず表れるので、たとえ「コンセプト」だけが立派であったとしても、ごまかしのきかない点だ。この追求こそ制作者自身が向き合い続けるべきもっとも困難な面白さでもあり、作品の質となる。自己言及のドグマから解放された特定のメディアとして、絵画の魅力はいまも継続していると言えるだろう。

絵画をとりまく「現実」へ目を向けると、生活のあらゆる場面でさまざまなディスプレイ=画面に囲まれた環境に伴い、加速度的に量産される画像が増え続けていることは、もっともアナログな画面と画像である絵画にとっても、無関係ではない。人間の身体感覚に直接テクノロジーが介入することにより、デジタルとアナログの混在はすでに日々の前提条件となっている。そのような状況は、関わる人の生活や認識、コミュニケーションや考え方にまで及び、絵画の思考プロセスや制作プロセスにも密接に関わってくる。
 可視と不可視の認識の限界値も拡張し続けており、例えば原子のイメージは、現在ではさらにミクロの領域まで確認できるようになり、温度や色彩、質量を持たない素粒子の物質世界まで認知可能となった。また、遠く離れた探査機から送られてくる冥王星の画像は、人の肉眼では直視しようがない存在でありながら、繊細でリアルなものだった。
 人が生きるプロセスの中には、大きな理不尽も含まれる。理解の及ばない他者、憎しみや嫉妬といった感情、大きな社会で合意されたルール、日常とは無関係に訪れる災害、得体の知れない見えないものへの恐れ。一方で、絶望的な状況を乗り越えるように、新しいコミュニケーションや助け合い、現状を見つめ直すような動き。それらもまた、現実的な体感だけではなく、時にSNSなどを介して体感のレベルやスケールやスピードを変調させながら咀嚼していくような体験を僕らは知っている。
 そのような世界観の鱗片の影響を前提に、例えば僕の場合は、円形を用いた空間の入れ子構造や、透明層と色彩による絵画空間の融合、不確定さ、断絶性、などの要素を作品の方法論として使っている。現段階の僕にとっての調和や美しさとは、整理された構成だけでなく、むしろ絵の中に混沌、不可抗力を与えたり、それを残したまま受け入れていくことで画面のアップデートを進めていく作業だ。 

 あまりに多様となった表現メディアの中から、いま絵画を選択すること自体の意味も違ってくるのかもしれないが、未だ変わらない(他メディアとは違った特性を持つ)絵画の在り方もまた、健在だと思わされる。前述したように、絵画はその特異点が露わになったメディアであり、特異点の解釈をひとつのゲームのように扱うアプローチも可能だ。あるいは、画面という規定された枠の中だからこそ、描かれた世界ルールの自由なコントロールを駆使することができる。画面の中では、物を浮かべたり、地面という規定面を無視できるなど、重力の設定も僕らの現実のそれとは別のものに変えることができるし、キュビズムなどの絵画を見ればすでに自明であるように、手前と奥の空間を同じ画面で反転や融合させることで、描かれた世界に存在する時間と空間に、三次元以上の多次元的な揺さぶりを与えることができる。ただ、静止画でのイメージの操作という点に限れば、今や写真などもPhotoshopで自由に加工可能であり、すでに絵画との差異は薄いと言えるかもしれない。しかし絵画の場合、描かれたイメージという特性に加え、描写という現実の時間を蓄積させた行為性が、視触覚的に物質として積み重なることによって、知覚可能な事柄は多層化する。実物を前にすれば、塗った順序や使った道具の形態、描き上げた速度まで想像可能なのである。時空間を多次元化させ、行為の直接性による物質的リアリティをもった「塗り」(またはそれに相当すること)に宿る現象は、目に見える以上の概念を取り込むことになる。それは現代におけるVRのようなテクノロジーでの再現は難しいことであり(VRは視覚と三次元空間をベースとした形式で、触覚に対応した質感表現には未だ到達しておらず、解像度の概念にも捕われる)、見えない領域を捉えようとする問題系は、今もなお抽象絵画を取り組むための普遍的な動機となる。豊かな抽象性を帯びた画像となる絵画の存在感に、相変わらず僕は惹かれてしまうのだ。